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第28話 後悔の始まり⑤

Author: なつめ
last update publish date: 2026-09-04 03:44:11

     ◇

 夜明け前、ようやくヴィルレオは客室へ戻った。

 空はまだ暗い。だが、窓の端だけがわずかに白み始めている。夜は完全には終わっていないのに、朝の気配がどこかに紛れ込み始めている。その曖昧な時間が、今の自分に似ている気がした。

 遅すぎる愛。

 始まったばかりの後悔。

 失いたくないという決意。

 それらは全部、まだ朝とも夜とも言えぬ場所にある。

 寝台へ腰を下ろし、両手を顔の前で組む。祈るような形になっていることに気づき、少しだけ苦く笑った。神に祈る柄ではない。けれど今は、誰に向ければよいのかわからぬまま、それでも何かへ縋りたい気持ちがあった。

 後悔は始まったばかりだ。

 それが彼女を救うわけではない。

 むしろ、救えなかったことをこれから何度も突きつけてくるだけかもしれない。

 それでも、今度こそ彼女を失いたくないとヴィルレオは思った。

 命も。

 心も。

 期待も。

 そのすべてを失いたくないという願いが、もうどれほど身勝手かもわかっている。

 命は彼のものではない。

 心も、期待も、リュゼリア自身のものだ。

 彼が「失いたくない」と思ったからといって、それらを自分
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  • 余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました   第28話 後悔の始まり⑤

         ◇ 夜明け前、ようやくヴィルレオは客室へ戻った。 空はまだ暗い。だが、窓の端だけがわずかに白み始めている。夜は完全には終わっていないのに、朝の気配がどこかに紛れ込み始めている。その曖昧な時間が、今の自分に似ている気がした。 遅すぎる愛。 始まったばかりの後悔。 失いたくないという決意。 それらは全部、まだ朝とも夜とも言えぬ場所にある。 寝台へ腰を下ろし、両手を顔の前で組む。祈るような形になっていることに気づき、少しだけ苦く笑った。神に祈る柄ではない。けれど今は、誰に向ければよいのかわからぬまま、それでも何かへ縋りたい気持ちがあった。 後悔は始まったばかりだ。 それが彼女を救うわけではない。 むしろ、救えなかったことをこれから何度も突きつけてくるだけかもしれない。 それでも、今度こそ彼女を失いたくないとヴィルレオは思った。 命も。 心も。 期待も。 そのすべてを失いたくないという願いが、もうどれほど身勝手かもわかっている。 命は彼のものではない。 心も、期待も、リュゼリア自身のものだ。 彼が「失いたくない」と思ったからといって、それらを自分のそばへ縛りつけてよい理由にはならない。 むしろ、かつての彼は、彼女が差し出していた心を受け取らないまま、それでも妻として自分の隣へいることだけは当然だと思っていた。 その矛盾にすら気づかなかった。 今度こそ失いたくない。 そう願うなら、まず彼女を所有物のように扱うことをやめなければならないのだろう。 離縁を望む心も。 王都へ戻りたくないという思いも。 この別邸で穏やかに過ごしたいという願いも。 それらすべてが、自分にとってどれほど苦しい答えであっても、彼女自身のものとして受け止めなければならない。 愛しているから手放せない。 そう言うことは簡単だ。 だが、それが彼女の時間を奪うのなら、その愛はまた彼女を苦しめる。 遅すぎる愛を、さらに身勝手なものへ変えてはならない。 ヴィルレオは組んでいた手をゆっくり解いた。 指先には、扉の前で強く握った跡が残っている。白くなった節へ血が戻り、じんと鈍い痛みが広がった。 失いたくない。 それでも、彼女が望まぬ形で手元へ置くことはできない。 その二つの思いは、今のところ少しも折り合わない。 彼女を生かしたい。 そば

  • 余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました    第28話 後悔の始まり④

     愛は遅すぎたのだ。 彼女がまだ、自分の視線一つで胸を温められた頃に、その愛は形を持たなかった。食卓で彼女がそっと差し出していた小さな優しさを、自分は一度もきちんと受け取らなかった。夜更けの灯りの向こうにあった寂しさへ、手を伸ばそうともしなかった。 その空白の時間の果てに、ようやく愛と認めても、そこはもう彼女の待っていた場所ではない。 ヴィルレオは掌を強く握り、指の骨がきしむのを感じた。 それでも失いたくない。 この矛盾が、今夜の彼を眠らせなかった。 遅いと知っている。 遅くて、無様で、相手にとってはもう手遅れかもしれないと知っている。 それでもなお、自分は彼女を手放したくないと、あまりに身勝手に思っている。 そのことがひどく醜くもあり、同時にどうしようもなく本物でもあった。     ◇ 夜半を過ぎた頃、ヴィルレオは結局また客室を出た。 足が向かう先はもう決まっている。西側の回廊。彼女の寝室へ続く廊下。人に見られれば滑稽だろう。だが今は、自分の足がそこへ向かうことを止められない。 扉の前で立ち止まる。 中は静かだ。 前夜のように名を呼ぶことはしなかった。呼べばまた、自分の想いの輪郭ばかりが鮮明になって、肝心の彼女には届かないままだと知っているからだ。 ただ立ち尽くし、扉一枚向こうにある気配へ耳を澄ます。 ごく微かな咳が一つ。 続いて、水を飲む気配。 アイダの小さな足音。 その全部が、遠くはないのに、自分にはまだ入れない場所の音だった。 守っていたつもりだった過去を思い返し、その全部が放置だったと悟った。 謝ろうとしても届かなかった。 ようやく愛だと認めた時には、彼女はもう期待を置いていなかった。 いまやっと「失いたくない」と思っても、その思いに彼女を引き戻す力はない。 それでも扉の前から離れられないのは、もう彼女のいない未来を想像するだけで息が詰まるからだろう。 ヴィルレオは壁へ軽く背を預け、目を閉じた。 後悔の始まり。 その言葉がふと胸へ浮かぶ。 今までのものは、後悔ですらなかったのかもしれない。ただの遅れた痛みだった。だが今夜から先は違う。愛していたと認めてしまった以上、この先の時間はすべて「もっと早くに」という後悔を伴う。 彼女が笑えば、もっと早くその笑顔を欲しがればよかったと思うだろう。 彼女が

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     そのささやかな会話の端に立ちながら、ヴィルレオはふと、今の自分は何をしようとしているのだろうと思う。 失いたくない。 その気持ちはますますはっきりしていた。彼女がここで少しずつ呼吸を整え、土の匂いやひとり分の食卓や、何も急がなくていい朝の中で自分を取り戻しつつある姿を見るたびに、なおさら強くなる。 失いたくない。 もう二度と、あの空っぽの寝室や食堂のままには戻りたくない。 彼女がいないことで王都の屋敷が少しずつずれていく、そのずれに耐えられない。 それは愛なのだと、もう認め始めている。 けれど、その愛を今さらどう差し出す。 謝罪は届かなかった。 変えると言った未来は、彼女の望んだ時間とは違った。 手を伸ばせば今さらだと知る。 では、何をもって彼女を失わずに済むというのだろう。 答えのないまま、ただ胸の内側だけが強く軋んでいく。     ◇ その夜、ヴィルレオは再び眠れなかった。 前夜と同じく、暖炉の残り火が弱く部屋を照らし、風が窓を鳴らし、館の静けさが時間をゆっくり押し進めていく。だが今夜の眠れなさは、愛へ名をつけた夜とはまた少し違っていた。 愛だと認めた。 その感情自体はもう否定しようがない。否定しても無駄だ。彼女が咳をすれば胸が痛み、笑えば安堵し、遠く感じればひどく怖くなる。その動きを、愛以外の言葉へ押し込めることはもうできなかった。 問題は、その愛があまりに遅いということだった。 遅い、というだけではない。 遅い愛は、ときに相手を救わない。 むしろ、傷つけることさえある。 欲しかった時間に与えられなかったものを、後になって差し出されても、人は素直に受け取れない。特にリュゼリアは、もう期待しないことで自分を守るところまで来てしまっている。そこへ「今度こそ」と言うことは、彼女の穏やかな時間へまた不安と期待を持ち込むことにしかならないのではないか。 ヴィルレオは寝台を下り、また窓辺に立った。 夜の庭は暗い。花壇は影とほとんど変わらない。ただ、その暗がりの向こうに彼女の部屋があり、今ごろ浅く眠っているのだろうと思うと、心の奥底がひどくざわついた。 失いたくない。 そう思う。 では、自分は何を失うことを恐れているのか。 彼女の命か。 もちろんそれがいちばん恐ろしい。余命半年という言葉は、まだどこかで現実味を持

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     今さら整えたところで、何になる。 もちろん、整えなければならない。王都の屋敷はこれからも動く。彼女が不在のままでも、家と領地と社交は止まらない。だからこそ、彼女が一人で担っていた部分を見える形へ起こし、他の者でも回せるように変える必要がある。 だが、その理屈と、胸の内にある後悔とは、まったく別の場所にあった。 王都の屋敷を整えることはできる。 花の高さを正すことも、香草の量を減らすことも、夜番の回し方を変えることも、社交台帳の札を整理し直すこともできる。 でも、それは彼女が欲しかった時間ではない。 食卓で欲しかった言葉。 扉の前で欲しかった足音。 朝に欲しかった視線。 それらは、今さら本邸の仕組みを整えたところで、ひとつも戻らない。 ヴィルレオは報告書を伏せた。 机の端には、昨夜眠れないまま書きつけた彼女の名がまだ残っている。誰にも見せるつもりのない紙だ。粗い筆跡でただ一つだけ書かれた名前。それを見るたび、夜明け前に認めた感情の名がまた胸へ浮かぶ。 愛している。 遅すぎる。 だが本当だ。 そして、その本当さが、今はひどく残酷だった。     ◇ 夕方近く、ようやく熱が少し落ち着いたらしく、リュゼリアは居間へ移された。 窓辺の長椅子に毛布をかけ、背へ枕を当てて半身を起こしている。机の上には開いた本と、少し冷めた茶。頬は白いままだが、熱の赤みは薄れていた。咳のあとが残るのか、呼吸はまだ浅い。それでも寝台に寝かされたままではないことに、ヴィルレオはひどく小さく安堵した。 扉のところで立ち止まると、リュゼリアが顔を上げる。「旦那様」 その呼び方は相変わらず静かだった。親しさも拒絶もなく、ただ必要な分だけこちらを受け入れている声。「具合は」「少し楽になったわ」 嘘ではないのだろう。けれど、苦しくないわけではないことも、彼にはもうわかる。呼吸の浅さ。言葉の終わりに喉を休めるような小さな間。そういうものが、昼よりはましだが、夕方の疲れをきちんと物語っていた。「今日は庭へは」「出ていないわ」「そうか」「残念だったけれど」 そう言って、ごく淡く笑う。「花は逃げないものね」 その笑みに、また胸が痛む。 彼女はここへ来てから、こういうふうに小さなことを小さなことのまま言えるようになった。王都では、残念だとすら言えなかった

  • 余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました    第28話 後悔の始まり①

     その日の午後、南の別邸には薄い曇り空がかかっていた。 陽はまったくないわけではない。雲の向こうで白く広がり、湖の水面へ鈍い銀色を落としている。けれど昨日までのようなやわらかい明るさは薄く、風も少し強かった。まだ春と呼ぶには頼りない、冬の名残を引きずったままの午後だった。 リュゼリアは庭へ出なかった。 朝のうちに少し咳が長引き、熱もわずかに上がったらしい。クレメンス医師は「大きな変化ではございません」と言いながらも、今日は部屋で休むよう言い渡した。彼女も珍しく素直に頷き、窓辺の長椅子へ移って、本を開いたまま静かに時間を過ごしているとアイダは言った。 ヴィルレオはその報告を廊下で聞き、何も返せなかった。 何か言えば、焦りがそのまま声へ滲みそうだったからだ。熱はどれほどか。咳は何度か。胸の痛みは。食事は。水は。薬は。 知りたいことは山ほどあるのに、それを矢継ぎ早に訊ねる資格が自分にあるのかと考えた瞬間、喉の奥で言葉が止まる。彼女の苦しみ方を知らないのだと、昨夜あれほど静かに思い知らされたばかりだった。 だからヴィルレオはただ頷き、廊下の窓から見える灰色の空をしばらく見ていた。 風が強い。 あの花壇の白と青は大丈夫だろうか、とまず思った。 次に、こんなふうに小さなことから彼女を思う自分が、どこかひどく滑稽に感じられた。 花のことなど、昔から彼はほとんど気にしたことがない。食堂へ何色の花が活けられているか、玄関ホールの花丈が高すぎるか低すぎるか、温室で白薔薇が咲いたかどうか。そんなものは、目に入っても意味を持たなかった。 それが今は、白と青の小さな花が風に耐えられるかどうかまで気になってしまう。 なぜか。 答えはもうある。 そこへ彼女が触れたからだ。 彼女が植え、彼女が見て、彼女が咲くのを待っている花だからだ。 そう思った瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走る。 愛していたのに。 ようやくそう認め始めた自分の感情は、こういう何でもない枝葉にまで彼女の姿を見つけてしまう。だが、その愛が彼女の時間の中で一度もちゃんと差し出されなかったことも、同時にもう認めざるを得なかった。     ◇ 午後遅く、ヴィルレオは館の執務室で王都から届いた書類へ目を通していた。 別邸の執務室は本邸の書斎よりずっと小さい。机も、棚も、置かれている書類の量も控えめだ。

  • 余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました   第27話 愛していたのに⑤

     ヴィルレオは深く息を吐き、そっと回廊の影から身を引いた。 彼の足音に気づいたのか、リュゼリアがほんの少しだけ顔を上げる。視線が一瞬、こちらを掠める。けれど彼女は何も呼ばない。ヴィルレオもまた、名を呼ばなかった。 それでよかったのかどうかは、わからない。 ただ少なくとも今は、それが一番ましな形に思えた。 名を呼びたいという思いはあった。 昨夜、扉の前で何度も胸の中へ置いた彼女の名は、いまも喉のすぐ近くまで上がってきている。 リュゼリア。 呼べば、彼女は振り返るだろう。 穏やかな声で「何でしょう」と応じるだろう。 だが、その呼びかけは誰のためなのか。 彼女へ何かを伝えるためか。 それとも、ただ自分が彼女とつながっていることを確かめたいだけなのか。 その区別がつかないうちは、口にしてはならない気がした。 愛していると気づいたからといって、その愛をすぐに差し出すことが正しいとは限らない。 彼女は、欲しかった時に欲しかった言葉を受け取れなかった。 期待を捨てることで自分を守り、ようやくこの別邸で穏やかな時間を見つけ始めた。 そこへ遅れて現れた自分が「愛している」と告げれば、彼女はどう受け止めるだろう。 昔の彼女なら泣いて喜んだのかもしれない。 今の彼女にとっては、再び期待と失望のあいだへ立たされるための、重い言葉にしかならないかもしれない。 だから今は、言わない。 愛しているからこそ言わない、という考えさえ、自分を美化するためのものになり得ることはわかっている。 かつて彼は、守るためだと思いながら彼女を遠ざけた。 同じ過ちを、別の言葉で繰り返してはならない。 言わないことが本当に彼女のためなのか。 それとも、拒まれることを恐れる自分の臆病さなのか。 その問いも、これから何度も自分へ向けなければならないのだろう。 それでも今、この瞬間だけは、彼女が花を見つめる静かな時間を壊さないことを選びたかった。 ヴィルレオは廊下の奥へ歩き出す。 背後には庭がある。 土の匂い。 湖から来る風。 白と青の小さな花。 そして、その花の前に座るリュゼリア。 振り返らなかった。 振り返れば、自分の視線を彼女が感じ取るかもしれない。気を遣い、声をかけなければならないと思わせるかもしれない。 それすら、今はさせたくなかった。 彼

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